最近ようやく教員免許取得過程を終えた、がる先生です。
自分の教育者としての素質を知るため、
そして教育に関する基本的な知識の取得のために、
24歳から挑んだ教員免許取得。
その中で、今の日本の教育現場が抱える闇を何度も目撃してきました。
教育実習を受け入れてくださった中学校に
迷惑がかからないよう、ある程度話をぼやかしながら、
「日本の教育現場の闇」についてお話しさせていただきます。
目次 1.教員を教員と思わない生徒たち 2.何もできない教員 3.情報社会で育っている生徒たち
1.教員を教員と思わない生徒たち
「ブス」「おい、足太いんじゃ」「字汚いわ」
これは私が教育実習の際に、何度も聞いた言葉。
生徒から教員に投げつけられた言葉です。
私の担当をしてくださった先生は
私より少し年上の女性の方でした。(N先生とします)
とても明るく活発な方で、このような暴言に対しても
「そうじゃ、ブスで何が悪いんや!個性や個性!(笑)」
「足太いうな!(笑)土台がしっかりしとるって言い!」
などと、笑いを交えながらうまくコミュニケーションをとっていました。
本人以外に害を加えない素晴らしい対応だなと感心したものです。
しかし、授業後にこれらについて話をすると、
やはり「傷ついていないわけではない」ということでした。
「でも、本当に授業を聞きたい生徒のためにも
ああやって穏便にすませるしかない。」
「もし、言い返したり怒ったりすると、授業が進まない」
とのことでした。
N先生は、
「仕方がないけれど、すべてを完璧にこなすことは不可能だ」と言い、
「本当に必要なことを取捨選択し、今のやり方を選んでいる」
とのことでした。
聞こえはいいですが、何を言っても自分に害が及ばないと
判断した一部の生徒たちは、理性を失った獣のような存在になります。
N先生は、自分に対しての暴言は上記のようにやり過ごしていましたが
それ以上の授業妨害などには、身体と時間を使って対抗していました。
それも取捨選択のうちの一つだったんでしょう。
このように、一部の生徒は「教員=敵」や
「自分のストレスをぶつけても良い、
まるでサンドバックのような存在」
だと考えているのです。
そして教員はそれを制御できない現実があるのです。
2.何もできない教員
ひと昔前であれば、絶対的権力をもった学年主任(コワモテ)
がドカンと怒って解決、でした。
2017年現在27歳のがる先生ですが、私の中学生時代でも
そんな解決策がほとんどでした。
強い先生と落ち着きのない生徒たちは互いにぶつかり合い、
しかし、どこか認め合い、なんとか成長していく。
その中に多少の暴力や力を使ったやりとりはありました。
学校から出ていこうとしようものなら、身体を張って
食い止める。そんなこともありました。
そんな方法で「教育」を行っていました。
しかし、現在ではそれは不可能です。
子どもに少しでも触れようものなら、子どもの口から
「教育委員会」「体罰」「セクハラ」
そんな言葉が放たれます。
実際に子どもは教育委員会がどのような組織なのかもわかっていません。
おそらく、保護者や情報社会から手に入れた
なんとなくの情報を武器としているのでしょう。
しかし、現実的にそれが、対教師の対策として
一端を担っているということは置き去りにはできません。
3.情報社会で育っている生徒たち
今の子どもたちはインターネットに
取り囲まれた環境で育っています。
その中で得る情報の量は
インターネットがなかった時代の
子どもたちと比べると計り知れないでしょう。
しかし、正しい情報のみを吸収していくのではありません。
目の前に現れたインパクトの強い情報のみを
どんどん吸収していきます。
その中で教育委員会や体罰といった言葉の
”使い方の一部”を学ぶのでしょう。
当然生活経験の浅い子どもたちはその真意や
正しい情報までを追及できません。
覚えた武器は覚えた形で使う。
まるで弓で相手を叩くように、
雑に武器として使用してきます。
これに教員は対抗できません。
社会の潮流によりあらゆる武器を奪われた教員は
言論で相手を納得させる術しかもたないのです。
子どもたちはそれを理解しています。
理解したうえで攻撃してくる子どもたちもいるのです。
これに対し教員はどう対抗すればよいのでしょうか。
私がこの記事を書くに至ったのは
こちらのニュースを目にしたからです。
こちらは現実の教員からの悲痛の叫びです。
https://news.careerconnection.jp/?p=31106
最後に
私は体罰を良しとは考えていません。
良くない教員がいるのもわかっています。
しかし、それ以上に全教員に対する社会的な圧力や
プレッシャーがあまりにも大きすぎると感じるのです。
社会は病気刻みで変化しています。
その変化の中で、ともに変わっていかなければなりません。
その変化の中で、教員のあり方というのは取り残されつつあります。
聖職、という言葉が使われているように、教職に対して
あまりに理想論や要求が多すぎるのではないでしょうか。
全ての教育を学校や教員に任せ、
失敗は全てそこに責任を持っていく。
そのような考えがまかり通りつつある今の教育観に疑問を感じます。
教育とは、社会すべてで担うものです。
その中心に学校があるのであれば、その在り方は
社会全体でしっかりと考え、最もよい教育のために
一人ひとりが出来ることを行っていくというような
姿勢がこれからの教育に最も必要なのではないでしょうか。